「鉄穴流し」でできあがった明田地域の棚田


 
奥出雲では、約1400年前から「たたら製鉄」と呼ばれる砂鉄と木炭を用いる鉄づくりが盛んに行われ

ていました。奈良時代 天平5年(733)に編纂された「出雲国風土記」の仁多郡の条に『諸郷より出すと

ころの鐵堅くして、雑の具を造るに堪ふ(各郷から産出する鉄は、堅くて、さまざまな道具を作ることがで

きる素材である。)とこの地域で産する鉄の優秀性が記されています。


 奥出雲の大地では、鉄づくりの原料となる砂鉄を得るため、砂鉄を含む山を切り崩して水流に流し、比

重を利用して選り分けて採取する「鉄穴流し」が、想像を絶するほどの規模でおこなわれました。その跡

地は放置されることなく広大な棚田として再生されていきました。

 横田の中でも、稲原地域(原口集落・稲田集落)の圃場面積は突出しています。原口集落には大木谷

川、大谷川などがありますが水量はそれほど多くはありません。しかし、先人は鉄穴流し時の開削ため

を造り、原口村の山間部を西から東までほぼ全域にわたって鉄穴流しを進行させ大地を切り崩しまし

た。そして、砂鉄を採取した跡地を豊潤な棚田に姿を変え、広大な農地を実現させました。

           

         



 この地域の山間部や集落内にあるため池は、
鉄穴流し時の開削ため池や流し込み田の造成堤が転

用あるいは整備さ れて今日に至ったもので、その時々に畑田成や田地の開墾が実施されてきました。

近世期においてはこれらの畑田成を含む新田開発に対して検地が実施されています。

『役場所蔵文書目録』によれば、原口村について、寛文 10(1670) 年御検地帳、同山畠帳、寛政 10

年御検地帳、嘉永7年原口村田畑摺合帳が残されています。


 当時の中心的な雨堤として明田地域に整備されたものが、藤が丸(フジガマル)、矢入原(ヤニュウバ

ラ)、堂原(ド ウバラ、ダーバラ)、田ノ廻(タノサコ)として記録に残されています。

特に、藤曲池(現在の呼称)(藤ヶ丸  堤高 4m、貯水量 9,100t )は鉄穴流しの水源として整備さ

れました。現在では、坂根ダムから水の供給も受け、原口地域・稲田地域全域の圃場に水の供

給を行っています。藤曲池の標高412.2mの堤上には国土地理院の四等三角点が設置されおり、

057.329の文字を確認することができます。

       

          



 かつての鉄穴流しの遺構として、鉄穴残丘があります。それは、鉄穴流しの際に鎮守の杜や墓地など

神聖な場所を削らずに残した小山があちらこちらに残り、信仰を守り続けた先人の心を伝えている丘で

す。
明田地域にも数か所の残丘がありますが、隣の中条地域にある残丘はその特徴を顕著に表してい

ます。

        

       



 明田地域からの眺望はよく、北に船通山 南西に吾妻山 鯛の巣山 猿政山などをはじめとする中国

山地の山並みを望むことができます。


       

      

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